八重の桜 感想 第42話 襄と行く会津
変わり果てた古里・会津。
八重は、襄とみね夫婦を連れ立って、懐かしい故郷・会津を、十数年ぶりに訪れました。
たとえ荒れ果てた状態でも、我が家を見つけたとき、あたかも自分が生きた証を見つけた
ような気持ちだったのだろうと推測します。
ここで自分は育ったのだ。この角場で、銃の腕を磨いたのだ。
しかし、かつて誇り高く聳えていた鶴ヶ城は、跡形もなく取り壊されていました。
大切なものの全てが、かつてここにあった。
そして今は、もうない。
八重達は、布教のために会津を訪れたのですが、もう一つ大きな目的が・。
それは、みねを母親のうらに会わせ、みねが幸せな結婚をしたことを、うらに知らせるためでした。
久々の親子の対面にもうらは、頑なに縁が切れたと言います。
でも、みねが幸せな結婚をしたと聞いて、うらの顔にも微笑みが浮かびました。
八重も救われた思いだったでしょう。
でもその成は、かつての使用人であった、お吉や徳造よりも更に粗末な成りをしていました。
一人で大変な苦労をしたのでしょう。
娘と分かれて一人で暮らす姿を思い描くだけでも、胸が痛みます。
「一緒に帰ろう」
と懇願するみねの言葉にうらは、
「あの時、自分で決めたこと。自分は会津に残る。」
と言い張って、去って行ってしまいました。
山本家に戻るわけではなく、みね夫婦と3人で暮らすのであれば、
何も支障はないはずなのに・・・。
ごく当然のことなのに・・・。
なぜうらは、一人で生きる道を選ぶのか、私には理解できませんでした。
自分で選んだ道とは言え、とても不公平な気がする。
八重やみねや覚馬は、新しい世の中で活躍し幸せな日々を送っているのに、
うらだけが
これからもず〜っと、一人ぼっちで苦労しながら生きて行かねばならない。
非常に割り切れない。
キリスト教の布教をしようという人たちなのに、なんで黙ってうらを去らせたのでしょう。
なんで、綱をかけてでも、連れて帰ろうとしないのでしょう?
襄は、会津に教会を建てようと言います。
「傷ついた人たちが、息を突き、荷物を下ろすところ・・・」
でもそれで、うらの心は、ほんとうに癒されることがあるのでしょうか?
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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posted by やえすきお at 22:07|
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