「今度、発作が起きたら、心臓が破列します。今のうちに大事なことは聞いておいた方が・・・」
徳冨蘆花に置いていかれた久栄はも、失恋の悲しみをようやく乗り越え、勉学に励むことを決意。
「卒業したら神戸の学校へ行きたい・・」
「しっかり学べ。お前はお前の人生を自由に生きろ。」
覚馬は、久栄に山本家を継がせることに固執せず、山本家を離れて自由に生きることを許します。
そして、1888年(明治21年)1月、覚馬は娘・みねの遺児・平馬を、山本家の養子に迎えたのです。
一方、同志社大学設立に奔走する襄は、心臓病のために体調の思わしくない日が続いていました。
八重は、資金集めのために動き回ろうとする襄を必死に止めるのですが、全く聞き入れません。
そんななか、徳富蘇峰が訪れ、「国民の友」に掲載した襄の記事が、好評を博していると報告。
東京で募金集会を開いてはと、襄に提案します。
東京の大隈邸で同志社大学設立のための募金集会が開かれ、名だたる財界人を前に熱弁を振るう襄。
でもドラマの場面としては、ほんの一言しかしゃべりませんでしたね〜〜。
もう少し、とうとうと演説する場面がほしあったなあ〜〜〜〜・・
新島襄が伝えたい思いはただひとつ
「この国の柱となる人々を育成するため、大学をつくりたい」。
募金集会は無事成功し、
出席した有力者たちはそれぞれに、多額の寄付を申し出たのではありますが、
それぞれの思惑の中での出資であり、
真に大学の必要性を思っての寄付は、大隈重信ただひとりではなかったかと推測します。
喜んだのもつかの間、襄は体調がさらに悪化。
勝の紹介で、鎌倉の保養所へ。
約1月の保養を終えて京都へ帰った八重と襄でしたが、
「襄に残された時間はあとわずか――。」
主治医から襄の命が長くないことを告げられた八重は、ただ言葉を失うばかりでした。
そのことを悟られまいと、襄の前ではいつもどおりに明るく気丈に振る舞う八重でしたが、
しかし、夫の襄はすべてお見通しだったようです。
「主はなぜもう少し、時を与えてくださらないのだ?!
死が私に、追いついてしまう!」
「襄の命が削られるくらいなら、大学なんてできなくていい!!
大学は襄でなくても作れる〜」
「八重さん、私がいなくても誰かが後を継いで大学を作ってくれると、私も信じます。
でも、そのためには誰かが種を蒔かなくては。
私がやらなければいけないのです。!」
「これは襄の戦なんだ〜。戦をするのに命を惜しんでいたら、なんにもできねえな〜〜」
こうして二人は理解し合い、共に戦い続けるのでした。
そして再び襄は東京へ・・・
今日も最後までお読みいただき、ありがとうござます。
八重の桜もあと残すところ3話のみとなりました。
巷も1週間で師走に突入です。
寒さも更に厳しくなります。
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