「俺の首を討て〜〜俺を切って会津を助けろ〜〜〜!西郷〜〜」
獄中の覚馬の必死の訴えをよそに、
1868(慶応4)年3月、会津討伐に乗り出した新政府軍の「奥羽鎮撫(ちんぶ)使」が仙台に到着。
参謀の世良修蔵(小沢仁志)らは同じ奥羽の仙台藩に早く会津を討つよう命を下します。
新政府軍あ、自ら会津を撃つのではなく、東北諸藩に会津追悼を命じたのです。
しかも、会津藩主容保の斬首をもって、その証と条件付けたのでした。
帝に忠誠を尽くしてきた会津藩に対するあまりの理不尽さと、
横暴なふるまいを繰り返す参謀・世良修蔵に、仙台藩・米沢藩士らは業を煮、
会津救済のため、奥羽の名誉のため、東北が力を合わせて動き出します。
仙台藩は米沢など奥羽の諸藩と結束し、会津救済の嘆願書を提出することに。
その知らせを聞いた八重は安堵し、尚之助とともに早速、米沢藩士らに銃の扱いを教えます。
しかし、会津救済の嘆願は、横暴な世良によってあえなく破棄されてしまいます。
これに怒った仙台藩士らが世良を暗殺。
和議の道は閉ざされ、残るは戦いのみ。
会津救済のための嘆願書が、悲しくも、
新政府軍と会津・奥羽軍との間で戦いの火蓋が切られるきっかけになってしまうのです。
一方、危険が迫る会津では、
刀でいくつもの戦を切り抜け、一時は人斬り集団とまで呼ばれてきた新選組、
彼らにも時代の荒波が襲い掛かります。
「鳥羽・伏見の戦い」に敗れ、局長の近藤勇までも失うことに。
そのとき、土方と斎藤は何を思ったのか。
会津の地へやってきた新選組の心に変化が生まれ始めます。
そのひとり佐藤は、八重の親友・時尾と結ばれる運命にあるのですが、
その道のりもまた、厳しいものでした。
そして遂に全面戦争へ〜!
会津の悲劇と惨状が繰り広げられようとしています。
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