母、妻、5人の娘、妹2人、親戚12人
合計21人もの家族を失った西郷頼母は、
会津を逃れて土方歳三らと合流します。
そして、函館戦争にも参加し、五稜郭に入って再び新政府軍との戦いに臨みます。
家族の弔い合戦という気持ちもあったのでしょうか?
だとすれば、生きている目的があって、理解はできます。
しかし結局、函館戦争にも敗れ、囚われの身となります。
数年後に赦免となり、伊豆で塾長を務めたり、神社の宮司となったりしますが、
西南戦争が勃発し、西郷隆盛と交友があったために謀反の疑いをかけられて解任。
西郷頼母と西郷隆盛。(吉川晃司くんカッコいいでっすね)
苗字が同じなのですね。
ドラマ開始当初から、同じ苗字だにゃーー??と思ってはいたのですが〜〜〜
ななななななんと、西郷頼母と西郷隆盛とは、偶然に苗字が同じなのではなくて、
先祖が同じなのです。
ししししししかもですよ、その先祖は、
なななななんと、私の出身地である長崎県で、活躍していたのです。
あ〜〜〜びっくりした〜〜
さて、話を戻しまして、
西郷頼母には、息子が二人いました。
次男は、詳細未調査です。すんまそん。
長男は、会津を逃れるときに、一緒に連れて逃げたのですが、
明治12年に、その長男も病気で亡くなってしまいます。
息子二人に娘5人も設けた西郷頼母でしたが、遂に一人ぼっちになってしまった訳です。
この時彼は、50歳・・・なんか計算が合わないような気がするが、細かいことは置いといて・・・
よっぽど寂しかったのでしょう。
なんと彼は、甥の志田四郎を養子にします。
そして、柔術を教え込んだ・・・という説と、教えた痕跡がないという説がありますが、
頼母には、柔術や陰陽道の心得があったようです。
そしてその志田四郎(西郷四郎)・・・
この人は、後に柔道小説・姿三四郎のモデルになる人物なのです。
当時、講道館柔道の四天王のひとりと言われるほどの、柔道の達人に育ったのであります。
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